原題:La Festa del Grano (La Fête du Blé), Grande fantaisie pour orchestre à plectre et chœur
I.L’Aurore
II.Joyeux Réveil
III.Le Chant du Blé
IV.Après la Fête
Mario Maciocchi

邦題:マンドリンオーケストラと合唱のための大幻想曲「麦祭」
I.黎明
II.楽しき目覚め
III.麦の歌
IV.祭の後に
マリオ・マチョッキ

この曲目解説は大きく分けて三つの段から構成される。前段は作曲者マリオ・マチョッキの人物とその生涯について、中段は本曲とフランスの伝統行事としての麦祭について、後段は日本における本曲および同志社大学におけるマンドリンと男声合唱の歴史について、一連の文脈において記述している。

マリオ・マチョッキ(1874–1955)はローマに生まれパリに没した作曲家にして、出版者としてプレクトラムオーケストラの啓蒙活動に努めた人物である。画家、木彫家を本業としながら熱心な音楽愛好家でもあった父からギターの手ほどきを受け、年少の頃からブロントーリおよびコンソルティ両師にマンドリンとギターを、ベネディッティ教授にソルフェージュを学んだ。幸運にも聖セシリア音楽院のチェタッチョーリ教授にその楽才を見出され、作曲と指揮を学んでプロフェッショナルな音楽表現の薫陶を受けたのち、17歳でローマ五重奏団にチェリストとして加わった。その後、スペイン系の母親譲りの情熱的かつ冒険心に溢れる性分によって南米へと旅立った。旅の途上で黄熱病に倒れるも、失意の中にありながら生来の情熱を音楽に対しては注ぎつづけ、ピアノ、ヴァイオリン、チェロの研鑽を重ねたという。

1900年にパリへ移住したが、貧しさの中で家族とは別居し、下積み中の若い音楽家が多く住む芸術街の一角に一人暮らしをすることになる。この時期に彼は出稼ぎのためにベルギーで二つのオーケストラの指揮を務めるかたわら、元来アマチュアとして親しんでいたプレクトラム音楽に再び向き合うべく、1905年には教授所を設立してギターの教則本を出版した。同年、プレクトラム音楽専門誌であるL’ESTUDIANTINAをパリで創刊、1934年に誌名をL’orchestre à plectreへと改め、1939年まで刊行した。この時期はフランスにおいてもプレクトラム音楽の黄金期となった。

マチョッキはこれらの出版を通して自身のプレクトラムオーケストラ作品、シューベルトやモーツァルトなどからのクラシック編曲作品など約800にのぼる楽曲を世に出した。創刊当初は“Monsieur de Roma”(ローマの紳士)というペンネームで作品を発表したが、フランスにおけるプレクトラム音楽業界での名声が高まるにつれ、本名を用いるようになる。一方で、当時競合であったコッタン夫妻の出版社と比較して作曲家のレパートリーが不足していた状況で、あまりの多作ゆえに自身の名が誌面に溢れることを避け、複数の作曲家が存在するよう見せかける必要があったことから、“Comtesse Olga Delys”(オルガ・デリス伯爵夫人)の別名でも作品を出版するようになった。

この頃マチョッキは上流階級の貴婦人たちにマンドリンやギターを教える中で上流サロンとの交流をもつようになっていた。貧困と病苦の時代を乗り越えた彼にとってはまさしく成功の体現といえる経験であったことだろう。「神聖な/祝福された」といった意味の言葉に由来する女性の名としての“Olga”、フランス王家の象徴である百合の花(Fleur-de-lis)を連想させる“Delys”からなるこのペンネームは、憧れの対象であった貴族社会に自ら溶け込むための仮面としての役割を期待して名付けられたものであったのかもしれない。

第二次世界大戦中に妻を亡くし、息子とロンドンに疎開することとなった。晩年はパリに戻ってミュージックショップを開き、彼自身が“cueva”(洞窟)と呼んだ小さなスタジオでギターのレッスンをしながらそこにささやかな余生を過ごした。

マチョッキの作品は先の経歴を背景として、イタリア人らしい旋律美とフランス音楽らしい洒脱で洗練された色彩感をもつ和声に支えられ、そこにスペインの血をひく彼ならではの情熱的なリズムやドラマ性が見事に調和したものが多く、まさしく異文化融合の成功例であると言えよう。それぞれの特徴が混在しながら渾然とはならず、初めて聞く者にとっても親しみやすい作品ばかりである。L’ESTUDIANTINA誌主催の作曲コンクールで優秀賞に与えられる金のメダルには、リボンの両端にイタリアとフランスそれぞれの国旗のトリコロールがあしらわれており、生涯の大半をフランスで過ごしながらも祖国への愛情を忘れなかった証左であると言えよう。(資料1)

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資料1 L’ESTUDIANTINA誌作曲コンクールの金メダル
出典:マンドリンアンサンブル ヴォールテンペリーレン HP

大幻想曲「麦祭」は4つの楽章から成り、第3、第4楽章には男声合唱が入る。正確な作曲年は不明であるものの、スコアの表紙にはこの曲が1923年12月23日に初演されたという記載があり、またL’ESTUDIANTINAの1923年12月1日出版号において、「麦祭」のプレート番号M.113に続くM.114の「Amour Farouche(激しい愛)」という作品が掲載されていることから、近い時期に作曲されたものであると推察される。先述の多作ぶりからいわば凡作も多い彼であるが、本作についても、第1楽章はパート間の掛け合いによる奥深さを味わえる一方で、楽章が進むにつれてスコアが如実に簡素になり、第4楽章に至っては演奏時間にして2分に満たないという、「大幻想曲」と銘打たれた反面どこか物足りなさを感ぜざるを得ない仕上がりとなっている。彼の次々と湧き出るインスピレーションと創作意欲の弊害とも言え、自身にとってはあまり満足のいく出来ではなかったのだろうか、L’ESTUDIANTINA本誌には掲載されていない。とはいえ、大編成を前提として、男声三部合唱だけでは飽き足らずオーボエやチューブラーベルまでも贅沢に加えた本作は、彼の代表作の一つとして当時のアマチュアを主体とするプレクトラム音楽界で絶大な人気を博し、1950年にはパリの円形闘技場遺跡で200人超規模の大編成によって上演されたという。

フランスにおける伝統的な麦祭は、大自然の実りへの感謝と喜びを示し、翌年以降の豊穣を祈願する行事として、麦の収穫を行う7〜8月にかけて各地の農村で催されてきた祝祭である。村人たちが集まって麦を刈り入れ、麦の穂で飾られた山車と民族衣装を着た人々のパレードが村を練り歩く。また収穫した麦でパンを作り、食事を共にしながら音楽や踊りに興じる。日本でいうところの新嘗祭に近いものかもしれない。
各楽章には作曲者自身によって以下の解説が付されている。(邦訳は尾崎譜庫より引用)

1. 黎明(L’Aurore)
麗しい陽の一瞥は黄金の鋲を鏤(ちりば)めた大空を灰色に染めてゆく。黎明の光はまたたいている。そして夜の暗闇が物した喪のかおぎぬは静かに消えてゆく。突如明るい陽は流れて会堂の風見の雌鶏が紫に美しく彩られた。これが安息した夜の終りで、又活動すべき日の初めである。

2. 楽しき目覚め(Joyeux Réveil)
新緑の夏と豊満な収穫とを讃美する鐘の音は歓声の様に響いてくる。これを聞くと村人たちは疾く起き出でて祭神の衣を着ける。そして輝かしい面を見せて村道を右往左往する。やがて彼方の牧場から今日の祭りに到る牧人の笛の一曲が聞こえてくる。それから会堂の御告の鐘が遠く響いてゆく。村人はやはり村道を往ったり来たりしている。

3. 麦の歌 (Le Chant du Blé)
会堂の鐘を合図に集まった村人たちのミサが終ると若い人達は一団となって、古風な野趣を帯びた麦の歌を合唱する。これは伝統的なものであるが形式、韻律などは一定していない。

4. 祭の後に(Après la Fête)
一同は再び料亭に会合する。互いに心からの喜悦を尽すやがて名残を措*しんで散会する。そして彼方へ此方へ森へ畑へ……と急いでゆく。幾組かの若い夫婦達は麦の歌を高唱しながら仕事に親しむ。
(*原文まま)

また、以下は第3、第4楽章に登場する男声合唱の訳詞である。原語はフランス語であり、邦訳は「ロンドン橋」「ジングル・ベル」「メリーさんのひつじ」などの訳で知られ、マンドローネ奏者でもある作詞家の高田三九三によるものである。

1. 立て若者よ 心はいさみたち
眼は輝やけり 取り入れを祝わん
麦はみのりて 大地をおおいぬ
麦はみのりて 北風になびく
いざいざ行かん 鎌を手に取り
取り入れせん ときは来たれり
ほがらかに声はせて みよや日はのぼりぬ
大自然はさわやかに 澄みわたれり

2. しばし休まん 麦の穂をながめ
さて麦打たん からさを振り上げ
藁は飛び散る こまかにかるく舞う
藁は飛び散る 蝶の羽根のごと
歌え若者よ 笑へ笑へ
取り入れ祝う ときは来たれり
愛せ愛せよ 愛せ恋せよ
恋せ恋人よ みよや日はしづみぬ
山の彼方にまどかなる 夢をむすばん

本邦における大幻想曲「麦祭」は、本曲が現地で初演されてから1年と経たない1924年10月19日、同志社大学マンドリンクラブ(以下、SMD)第5回私演会において、菅原明朗指導の下、堀清隆の指揮によって初演された。(資料2)

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資料2 SMD第5回私演会プログラム
出典:マンドリン音楽資料館

SMDは同志社グリークラブ(以下、グリークラブ)の前身であるプリムローズソサエティ内のマンドリンクラブとして1910年に発足し、1919年に独立したという経緯がある。その後も両団体の協力関係は続き、第42、43回私演会ではグリークラブが賛助出演した記録が残っている。なお、この第42回私演会は、戦時色が強まる中1943年にSMDが活動を中断して以来、5年ぶりの開催となった記念すべき回であり、SMDの復興に際してグリークラブが協力を惜しまなかった当時の両団体の絆の深さが窺い知れる。本曲もまた、器楽と合唱の結びつきを象徴する曲として、第50回私演会、第105回定期演奏会などで折に触れて取り上げられている。

今回、グリークラブのOB団体としての起源をもつ東京クローバークラブとの共演が叶い、当団ビアンカフィオーリもまた、発足当初はSMDのOBメンバーを中心に立ち上げられたその成り立ちに鑑みると、今回の演奏は、本曲の初演以来100年あまりの時を経た現在において、同志社大学の中で長く受け継がれてきたマンドリンと男声合唱のつながりを再び舞台に蘇らせるという意味で、歴史的に大変意義深いものである。この伝統を尊重するとともに、賛助出演の依頼を快諾してくださった東京クローバークラブの皆様へ多大なる感謝の意を表明して、筆を擱くこととする。

(筆者 圓尾駿弥)