原題:Intermezzo Lirico
Vittorio Cerrai
Riduzione di Takayuki Ishimura

邦題:抒情的間奏曲
ヴィットーリオ・チェルライ
石村 隆行 編曲

ヴィットーリオ・チェルライ(Vittorio Cerrai, 1884-1949)は、イタリア中西部トスカーナ州のピサ県テルリッチォーラ村に生まれ、同州フィレンツェに逝いた作曲家、指揮者である。彼について本邦では長年、出身地や生没年などを含め、ほとんどの情報が不明のまま作品のみが知られていたが、石村隆行氏によるイタリア滞在中の調査活動の結果、多くの情報が判明した。
長年ボローニャに定住して活動していたが、戦時中にシエナに疎開したことがあった。その際、現地のシエナ・マンドリン・サークル(のちのシエナ・マンドリン・オーケストラ“アルベルト・ボッチ”)と親交を深め、同団に贈られた「シエナ組曲」は本邦斯界においても重要なレパートリーの1つとなっている。同団の指揮者でチェルライと親しい友人であったA.ボッチは彼について、「彼は神経質なくらい内向的な性格だったが、謹厳な道徳心に満ち繊細で高貴な魂をもった人物であった」と述べている。
チェルライのマンドリン作品としては、1940年、41年にシエナで行われた作曲コンクールで、「チャルダス」と「サハラ砂漠の駱駝隊」がそれぞれ入賞している。他にもスイスのマンドリニズモから出版された作品として、「セレナータ」「序曲」「ノスタルジア」「マズルカ」「クワジ・ミヌエット」「アルプスの唄」「華麗なるワルツ」などがある。
また、マンドリン曲以外の作品として、三幕からなるオペレッタ「ヤンキー」や、管弦楽曲のためには「古典組曲」「ボッカチオ風組曲」「神秘的間奏曲」などがあり、その他「ジャズ編成法」なる著作もあるという。今回取り上げる「抒情的間奏曲」は管弦楽曲からの編曲であるが、50小節に満たない小品ながら、ハルモニウム(今回は省いている)と複数の打楽器を取り入れた編成となっており、感傷的なロマンティシズムと適度な通俗性が絶妙に調和された佳曲である。
冒頭から穏やかな朝の目覚めのように幻想的な世界が提示されるが、よく聞くと中低音の独立した動きはどこか不穏な空気を孕んでおり、この静寂がある種、嵐の前の静けさであるような印象を受ける。短い序奏のあとには、主旋律が伸びやかに唄う一方で、中音域は小幅ながら絶え間なく揺れ動き、雲ひとつない晴天と、ほんのかすかな風が海面を撫でる風景が現れる。そうして凪の海の上に漕ぎ出すと景色はさらに広がりを見せる。一切音高を変えない持続低音によってオーケストラ全体が支えられ、遥か彼方の水平線まではっきりと見渡せるようで、前途洋洋とはまさしくこのことである。しかし、いったん波が引いたかと思うと、一転、激しい暴風雨が我々を襲う。小さな竜巻をいくつも取り込み巨大化する嵐の前に為す術なく、そのまま曲は最高潮に達し、ここに我々は冒頭で中低音によってさりげなく提示されたモチーフの正体を見る。嵐が去ると辺りは再びもとの静けさを取り戻し、マンドリンのソロによって、船首から最後の一雫が水面に落ちる様が表現され、曲を締め括る。
ところで、以上のコンセプトは「抒情的」の「情」の字を「情景」の「情」として捉えて記述している。しかし、「抒情」とはまた「感情」を表すものでもあることは言を俟たない。それでは、先述のような場面の移り変わりに照らし合わせて、どのような感情が最もよく当てはまるだろうか。感情に名前をつけることは実は難しい。むしろ、個人の瞬間ごとに複雑に揺れ動く思いをその都度完全に言い表す言葉など、この世には存在しないのだろう。従って皆様には、今回の演奏を聞いて、そこに人のどのような心の動きが表現されているか、銘々に感じ取っていただきたい。あるいは、音を聞いて思い浮かべる景色も、人によって上のものとは全く異なっているかもしれないが、それもまた良い。同じ音楽を通して、一人ひとりがそこに各々の景色を見、それぞれ違った何かを感じる。そうしてこそ本曲が「抒情的」であると言えるし、頭ではなく心で味わうことで、さらに深くこの音楽に耽美することができよう。

(筆者 圓尾駿弥)

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ヴィットーリオ・チェルライ