原題:Anime alla deriva,Interludio
Ugo Bottacchiari
Riduzione di Jiro Nakano /Modificazione di Syuntarou Taguchi

邦題:間奏曲「彷徨える霊」
ウーゴ・ボッタッキアリ
中野二郎 編曲 / 田口俊太郎 補筆

ウーゴ・ボッタッキアリ(Ugo Bottacchiari,1879年3月10日-1944年3月17日 )は、イタリア中部のマルケ州マチェラータ県にあるカステルライモンドに生まれ、スイス国境近くのコモ(ロンバルディア州コモ県)で没したイタリアの作曲家/指揮者です。
作曲作品には、歌劇、管弦楽曲、吹奏楽曲、歌曲、独奏曲等があります。マンドリン曲も多数作曲しており、マンドリン界においては最も重要な作曲家の1人となっています。

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生誕100周年記念誌
ボッタッキアリ生誕100年を記念して1982年に制作されました。彼の経歴、作品リスト、記事などが掲載されています。今回の解説はこの本から引用して作成させていただきました。(資料提供:マニア王子)

彼が生まれたカステルライモンドは小さな町で、農業や鎌、鍬、鋤、土鍋づくりなどの家内工業を営む家が多く、あまり裕福ではない地域でした。その中でボッタッキアリ家は、彫刻家の父親と裁縫や編み物の才能があった母親によって比較的裕福な家庭でした。
家は、市役所などがある町の中心部に位置し、近くにはサン・ビアージョ教会があり、人々の声や教会で歌われる歌が聴こえ、当時は吹奏楽団の演奏も頻繁に行われており、幼いウーゴは音や音楽に溢れた環境で育ちました。1885年にはカステルライモンドにも鉄道が開通し、祝典ではカステルライモンド、サンセヴェリーノ、ピオラコの3つの町の吹奏楽団が交代で演奏をしています。駅は自宅のすぐ近くですから、それらの演奏を間近に聴いたに違いありません。
小学生になった頃には、歌が好きでクラスメートを率いて合唱をするなどしていました。そんな彼に両親は古いマンドリンを買い与え、それは彼の宝物になりました。彼はマンドリンを弾きこなし、流行歌や自作の曲を弾いて近所の人に称賛されていたといいます。
13歳(1892年)の頃には、マチェラータの親戚の家に下宿して技術学校に通うことになりました。愛用のマンドリンを携えて学校に通い、学校の勉強も怠ってはいませんでしたが、友人たちと小さなグループを結成し、マンドリン合奏をするようになりました。彼らは卓越した演奏で有名になり、街のサロンだけでなく、様々な集会での演奏の依頼を受けていました。
そうした楽しい学生生活が始まったのもつかの間、最愛の母親が不治の病に侵され、亡くなってしまいます(1893年)。この時から「生と死=喜びと苦しみ」という対立が彼の作品の根底に流れるようになったと思われます。
この悲しみの中、彼は母に捧げた哀歌「あなたのお墓に」(Sulla tua tomba)を作曲しています。
勉学を続ける中、合奏団のリーダーとして活動を行い、数々の舞曲や歌曲を創作し、マルケ州内の注目を浴びました。また「凱旋行進曲」(Marce Trionfali)を様々な都市に献呈したりしており、その中の16歳の時に最初に作曲したのが、故郷へのオマージュでもある「行進曲 カステルライモンド」(Marcia Castelraimondo)です。

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14歳の頃のボッタッキアリ

技術学校卒業後には親族の勧めで工科高等学校に進学しますが、音楽への情熱は冷めることなく、方程式よりも五線譜に没頭してゆきます。また、有名なマンドリン奏者であったマッツォーニ教授らは、彼がノートにマズルカやワルツを落書きしているのを見て、音楽を続けるように励ましました。
彼は、和声の基本もすぐに習得し、独創的な曲を即興で作曲できる並外れた才能と、小編成のオーケストラを完璧に指揮する能力で皆を驚かせました。そして、劇場や管弦楽団からは早熟な芸術家として賞賛されてゆきます。まだ17歳にもなっていない頃の話です。

マッツォーニ教授が当時マスカーニが校長を務めていたペーザロ音楽高等学校に行くべきだと薦めましたが、彼の親族には高等学校の正規の授業料を支払うだけの十分な資力がありませんでした。そこでマッツォーニ教授自身と同僚たちがマチェラータの人々に募金を呼びかけ、人々は惜しみなく寄付に応えました。そして、18歳になった工業学生は、恩人へ感謝しつつ、夢を叶えるべく音楽高等学校に入学することができました。
マスカーニは彼を温かく迎え、その後も愛情を込めて彼を指導しました。
入学時、マスカーニは彼の無数の作品を見て、「天賦の才に恵まれた若者で、きっと多くのことを成し遂げるだろう!」と語ったと言われています。
彼は熱心に学び、巨匠の改革的な理念を自分のものにし、和声と対位法の理論的理解を深めてゆきます。そして、歌劇「影」(L’OMBRA)の作曲に着手します。
翌年、彼はコジモ・ジョルジェーリ・コントリの台本によるこの一幕の歌劇「影」でデビューし、大成功を収めました。
彼はその後も勉学に励み、5年の課程を4年で卒業します。マスカーニはもう1年留まることを勧めましたが、自身で生計を立てるためすぐに去ることを選びました。

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20歳の頃のボッタッキアリ

彼はフィレンツェのフィリーネ・ヴァルダルノのG・ヴェルディ市立学校の指揮者選考コンペに参加し、見事指揮者に就任します。数か月後には、彼の楽団は地域の楽団の中でも頭角を現し、9年間の活動を経て高い評価を得て、トスカーナ州外でも広く知られるようになりました。

フィリーネ在住中の1908年4月9日、彼はエルヴィラ・ジュスティ嬢と結婚します。
その後、1910年から1911年にかけてマチェラータのマテリカで教鞭をとり、その後トスカーナ州のルッカ(1912年から1913年)に移り、パチーニ音楽院でも教鞭を執りました。その後、リグーリア州のセストリ・レヴァンテに移り、ジェノヴァの「シヴォリ」音楽委員会の審査員に任命され、後にボローニャの「コンチェルト」音楽委員会の審査員にも就任しました。
そして1921年、コモの「コンチェルト・A・ヴォルタ」コンクールで優勝し、1922年4月にロンバルディア州のコモに移り、生涯をそこで過ごしました。

彼は生涯で数多くのオペラやオペレッタを出版し、高い評価を得て作曲家としての地位を確立しました。
指揮者としての活動の記録の中には、1935年にローマで開催された吹奏楽の合奏コンクールでA.バッツィーニの「サウル」序曲を演奏して第4位(75団体参加)を獲得したとされています。(同曲は今回のプログラムの第1部の1曲目に演奏するものであり、ボッタッキアリも指揮をしたことがあると知ると、感慨深いです。)
また、演奏プログラム等を見ますと、ワーグナーの曲を好んで取り上げているのも伺えます。自身の子供たちにトリスターノ(Tristano)とイゾッタ(Isotta)名付けているのですが、ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルテ」のイタリア語名は”Tristano e Isotta”であり、相当なワグネリアンであったと思われます。

音楽を志すきっかけとなった楽器がマンドリンであったこともあり、彼はマンドリン音楽にも深く関わりました。
1906年ジェノバのシヴォリ音楽院主催作曲コンクールで4楽章の交響曲「ジェノバ市に捧ぐ」(alla citta di Genova)が第1位を獲得、1910年イル・プレットロ誌 主催の第3回作曲コンクールでロマン的幻想曲「誓い」(Il Voto)が第1位を獲得するなど、様々なマンドリン作曲コンクールに作品を出品し、受賞しています。
彼は、マンドリン研究誌“イル・コンチェルト”誌の主幹を務め、同誌から出版した「交響的前奏曲」(Preludio Sinfonico)はマンドリン界の至宝となっています。
コモに移り住んだ後の1925年には、交流のあったA.カッペレッティの後を継いでマンドリン合奏団のフローラマンドリンクラブ(Circolo Mandolinistico Flora)の音楽監督に就任し、各地のマンドリン合奏コンクールで入賞しています。
晩年の1941年にはシエナで開催された国家機関であるOND主催の作曲コンクールで瞑想曲「夢の魅惑」(Incantesimo di un sogno)が第1位を獲得していますが、他の出品者とは格が違っており、当然の結果でした。前年の同コンクールが「1位該当なし」となったことから大御所が腰を上げたということなのかもしれません。

最晩年の1943年に彼は自身のデビュー作であり代表作でもある歌劇「影」を改作して上演しています。
そして、最後の作品となったのが管弦楽のために書かれた本曲、間奏曲「彷徨える霊」(Anime alla Deriva)であり、翌年の1944年3月に彼はこの世を去りました。
「影」改作上演を行った時の写真が残っていますが、壮年期に比べるとずいぶん痩せ細っているように見えます。「影」のストーリーが、死者に思い残すことがあったらクリスマスの夜に故郷に戻ってくることができるという言い伝えをもとにしたものであることから、既に死を予感していたのだと思われます。「彷徨える霊」はそういう思いの中から生まれ、彼の生涯のテーマであった「生と死=喜びと苦しみ」を現したものだと思われます。

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1943年にコモのソシアーレ劇場での歌劇「影」公演後の写真
左から、ジョバンニ・ヴォジャー(ウォルファンゴ役)、マファルダ・ファヴェロ(マルゲリータ役)、マエストロ・ボッタッキアリ、協力者のパオレッティ

本曲は、マンドロンチェロを主旋律とする低音楽器群によるLargoの序奏から始まります。この音楽は単なる序奏としてではなく、全体を支配する重要な主題として提示されています。
次いで全体で奏でられる美しい旋律は、人生を回顧するかのようですが、繰り返されるうちに激しさを増し、感情が高まります。
(この旋律は、イヴ・モンタンが歌って大ヒットしたシャンソンの「枯葉」にそっくりです。もしかしてどちらかが流用されたものではと思い、調べたところ、「枯葉」の原曲は、フランスの作曲家であるジョセフ・コズマ(Joseph Kosma,1905-1969)が作曲したバレエ音楽「ランデブー」(Rendez-vous)の1シーンのために書かれたもので、その作曲年は1945年となっていました。「彷徨える霊」の作曲/出版は1943年ですから、少なくともボッタッキアリが流用したものではないことは確かです。)
この旋律が最高潮に達したとき、突如打ち切られ、序奏の主題がanimatoに変化して現れます。回顧的な世界から現実の世界に戻り、その機微を現しているようです。音楽は、さらにmosso assaiで不安や焦りが交錯して悲劇的となり、低音へと下がって深く重苦しい後悔の念のようなものが表現されます。しかし、sf(ボッタッキアリ独特の)をきっかけに神の許しが得られたかのように主題のモティーフがマンドラによって奏でられます。そしてまたsfを経て、再びLargoで序奏の主題が少し変化したかたちでマンドリンの高音で奏でられます。pizzのオブリガートに乗った高音の旋律は極めて透明で、全てが浄化されたかのようです。次いで現れるマンドリンのG線による朗々とした旋律はクァルティーノパートによって彩られ、思い出が走馬灯のように蘇ります。
その後、生への執着を断ち切る苦悩のようにフレーズ毎に強い倚音が現れ、天国への入り口に吸い込まれるように速度を増したかと思うとすぐに広がり、先ほどのLargoの主題がGrandiosoで高らかにそして力強く歌い上げられ、昇天します。しかしそのままでは終わらず、主題のモティーフがfffの強いアクセントを伴って現れます。ここにはimplorante(懇願するように)と付記されており、最後の思いが懇願するように絶叫されます。そしてもう一度、もう一度と繰り返えして穏やかになり、祈りを重ねて消えてゆきます。

今回、管弦楽の楽譜を参考に中野二郎先生の編曲に補筆をさせていただきました。興味深い音を加えたり、音のつながりが良くなるように変更を加えておりますので、より良くなったと感じていただけたら幸いです。
ボッタッキアリが人生の最後に書き残したこの曲に敬意をもって「生と死=喜びと苦しみ」に向き合った演奏ができればと思います。

(筆者 田口俊太郎)

ボッタッキアリ通り

ボッタッキアリの生家があるカステルライモンドの市役所からS.バッジョ教会に向かう小道は彼の功績を称えて「ウーゴ・ボッタッキアリ通り」と名付けられています。