原題:“SAUL” Overtura d’Introduzione alla Tragedia d’Alfieri
Antonio Bazzini
Riduzione di Takayuki Ishimura

邦題:「サウル」—アルフィエーリの悲劇に寄せる序曲—
アントニオ・バッツィーニ
石村 隆行 編曲

アントニオ・バッツィーニ(Antonio Bazzini, 1818-1897)はイタリア北部ロンバルディア州のブレシア県に生まれ、ミラノに逝いた作曲家にしてヴァイオリニストである。また晩年はミラノ音楽院でマスカーニやプッチーニなどに教えた教師でもある。作曲家としては殊に室内楽曲にて成功を収め、本邦では超絶技巧として名高いヴァイオリンとピアノのための小品「妖精の踊り」が最もよく知られる。
年少時代の彼は地元のヴァイオリニストであったファウスティーノ・カミザーニに師事し、17歳で故郷の教会のオルガニストに任命された。その翌年にパガニーニと運命的な出会いを果たし、のちの彼の音楽家としてのスタイルを深く規定することとなった。パガニーニは彼にすぐにでもコンサート活動を始めるよう勧め、バッツィーニは瞬く間に芸術家としての名声をほしいままとすることとなった。1841-1845年にドイツに滞在した頃には、シューマンやメンデルスゾーンからも高く評価された。(この間、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を初演して一躍時の人となったフェルディナンド・ダヴィッドがこの曲を演奏するよりも先に、バッツィーニがプライベートな場で初演していたとする説もあるが、出典の真偽は定かではない。)その後、1864年のオランダ公演で現役を退くまで、デンマーク、スペイン、パリなど各地で積極的に演奏活動を行った。
バッツィーニの初期の作品はパガニーニの影響を多分に受けており、先述の「妖精の踊り」も例に漏れず、至って簡素なピアノ伴奏の上に、ひたすらヴァイオリンの超絶技巧を強調する仕上がりとなっている。その演奏効果の高さから今日でも腕に自信のあるヴァイオリニストたちが好んで取り上げているが、この曲以外を通して作曲家としての彼を知る者はほとんどいないだろう。そのわけは、彼が芸術家としての生涯の中で、自身の作風を大きく変えているためでもある。
演奏活動を引退して故郷ブレシアに戻ったバッツィーニは作曲活動に専念することとなるが、この頃から彼の作品には従前見られていたヴィルトゥオーゾ的な性格が徐々に取り払われていった。オペラ「トゥーランドット」や交響詩「フランチェスカ・ダ・リミニ」、そして今回演奏する「サウル」などの管弦楽作品は、この転換ののちに書かれたものである。当然、作風を変えたからといって彼の類い稀な楽才が作品から失われたわけではなく、1864年にミラノ弦楽四重奏協会主催の作曲コンクールで第一位を受賞した「弦楽四重奏曲第1番」をはじめとする6つの四重奏曲は彼の作品の中でもとりわけ優れている。(このうち第1番第3番については、当団所属の奏者で組まれたカルテット“Burletta da Biancafiori”が撥弦で演奏し、録音を残している。)
後続育成のために自ら積極的に教鞭を執ったバッツィーニは1873年にミラノ音楽院作曲科の教授となり、1882年には同院の院長に就任した。思うに、教育者としての責任が大きくなるにつれ、いたずらに超絶技巧を魅せつけるような音楽は、次第に彼の価値観に合わなくなっていったのではないだろうか。選ばれた一握りの天才だけが享受できるようなものではなく、誰しもが気軽に触れられ、なおかつ音楽というものの奥深さを味わうことのできる作品こそが、未来の音楽の発展のためには必要なのだと、そのような思想に至ったのかもしれない。仮にそうだとすると、「妖精の踊り」という初期の作品のみが知られ、その他の多くの作品が忘れ去られてしまった現在は、彼にとって実に哀しい帰結である。圧倒的な技術で難曲を我がものとする姿が人々を魅了し、それが音楽家にも求められているという風潮は現代でも変わらない。しかし、演奏家としても作曲家としても教育者としても大成し、ペンと五線譜とグァルネリをすべて思いのままに操った彼こそが、真のヴィルトゥオーゾであった。

本曲はイタリアの劇作家ヴィットーリオ・アルフィエーリ(Vittorio Alfieri, 1749-1803)が著した、旧約聖書に登場する紀元前10世紀頃のイスラエル王国の王サウルを題材にとった戯曲に寄せる序曲である。1867年に作曲され、同年に開かれたミラノ弦楽四重奏協会の作曲コンクールで第一位を獲得した。
アルフィエーリはイタリア北部ピエモンテ州、当時はサルデーニャ王国領であったこの地の伯爵家に生まれた。高貴な身分の生まれでありながら、フランス革命で王政に反抗する民衆の力に感銘を受けて『バスティーユ抜きのフランス』を著したが、のちに『フランス嫌い』を書いて革命政府の行き過ぎを弾劾するなど、なんとも食えない人物である。生涯を通してほとんど全ヨーロッパを放浪したが、当時専制君主のもとで西欧化を推し進めていたプロイセンやロシアのことは気に入らなかったと自伝で語っている。晩年はギリシア語研究とギリシア・ラテンの古典の翻訳に没頭しており、共和主義の思想に共鳴していた側面に鑑みると、サウルの伝説を題材に採ったのも自然な流れであろう。
彼の作品は史実にはあまり拘らず、政治的色彩が強いとされる。登場人物の台詞は努めて簡潔なものに留めており、心情や置かれた境遇がその都度言葉に置き換えられていた多弁なフランス古典演劇などと比較すると、あえてすべてを語らせない彼の作劇術は、当時にあっては実に斬新な作風であったことが推察される。そのため、彼の悲劇を題材に選んだバッツィーニが、ヘブライ王族の複雑な心情の機微をどれほどの粒度で汲み取っていたかは知り得ない。

背が高く容姿端麗な若者であったサウルは、神の伝道師サムエルによって、主の祝福を受けた者として民の中からイスラエル最初の王に選ばれた。しかし、アマレク人との戦いで「敵軍とその属するもの全てを滅ぼせ」という主の命令に背いたために、神の恩寵を失うこととなった。そこでサムエルは新たな王を見出すべく、ダヴィデという羊飼いの少年を選んだ。彼もまた美しい見た目をしており、おまけに竪琴の名手でもあった。彼は出陣の度にことごとく勝利をおさめ、たちまち民衆からの信頼を集めた。サウルはダヴィデの人気を妬み、敵陣に送り込んで亡き者にしようと試みたが、神の寵愛を受けたダヴィデが戦いに敗れることはなかった。サウルはその後何度もダヴィデの命を狙ったがすべて失敗に終わった。一方のダヴィデはサウルの手を逃れて各地を転々とする中で幾度かサウルを討つ機会を得たが、その度に彼は殺害を拒み、害意のないことをサウルに告げた。その後、すでに神の寵愛を失っていたサウルはペリシテ人の軍勢の前に追い詰められ、剣の上に身を投げて命を絶った。サウルの死を聞いたダヴィデは衣を引き裂いて深く嘆いたという。
このストーリーをアルフィエーリはどのように紐解いて戯曲を著し、バッツィーニはそれをどのように解釈して序曲を書いたのだろうか。アルフィエーリの偏狭な政治観から見ると、独擅的な愚王を民衆の力で圧倒する英雄譚と捉えたかもしれないし、あるいは洗練された台詞の中に、正気と狂気の間で揺れ動く王の煩悶を描こうとしていたのかもしれない。バッツィーニはどうだろうか。パガニーニの超絶技巧に傾倒していた頃の彼なら、竪琴の名手であったとされるダヴィデに乗じて、題材を同じくするボルツォーニの序曲「サウル王の悲劇」のように、ハープのカデンツァを入れていてもおかしくはないが、そうしなかったことには何か意図があるのか。また、何度も命を狙われながらもサウルへの敬意を持ち続けたダヴィデの崇高な精神と、それを理解しない民衆との対比に、何か自身の境遇と重なる部分があったのだろうか。
少なくとも私はこの曲については、激しいアクセントと優美なレガートを行き来することによって、他人を信じることのできない孤独な王の不安定な心の動きが表れていると感じるし、終幕のファンファーレは些か単調ではあるが、その明るすぎるがゆえにどこか空虚なラッパの音によって、かえってダヴィデの純粋な悲しみに思いを馳せずにはいられない。参考までに、この曲目解説はいくつかの引用によって締めることとする。いずれにせよ、これらの引用と今回の演奏から、一連の悲劇をどのように捉えるかは受け取る者一人ひとりに委ねられており、どのような仕方であれ、言葉や音を手がかりに他者の痛みを理解しようとする営みこそが、悲劇というものを味わうことの真髄であると私は考えている。

引用①
以下はいずれもアルフィエーリの悲劇『サウル』におけるサウル王の台詞から。
「ああ!今の儂は呪わしくも父親なのだ!」(サウルとダヴィデは血縁ではないが、ダヴィデがサウルの娘ミカルを娶ったために親子の関係となった。)
「権力を欲する飽くなき邪悪な欲望よ——お前にできないことなどあろうか?」
「国を手に入れるために、兄は弟を殺し、子は母を殺し、夫は妻を殺し、息子は父親を殺す……。血と、残虐の座なのだよ、玉座とは。」

引用②
以下は管弦楽譜に書かれた作品のコンセプトであるが、作曲者の自筆によるものかは定かではない。
「本序曲の冒頭から絶えずサウルの残忍さと傲慢さ、そして激情が表現されている。それは、ダヴィデの歌と息子たちの情愛と懇願によって一時は抑えられるが、より怒気を増して再び現れ、時には激しさを鎮めるかと思われた慰めの言葉に対してすら高ぶる。楽曲全体を形成する大きな特徴は対置と交差である。すなわち、落ち着きの無さと気持ちの乱れ、不安定な平穏が、形式と見解の調和を示しながら対置され交差している。序曲は、全ての者を叩き出し、ついにただ一人となり、近づきつつある勝ち誇った敵のラッパを耳にしながら自らの命を絶つサウル、そして勝ち誇ったペリシテ人群衆の殺到と荒々しい賛歌とともに閉じられる。」

(筆者 圓尾駿弥)

null
アントニオ・バッツィーニ
null
ヴィットーリオ・アルフィエーリ
null
竪琴を弾くダヴィデとそれを聞くサウル

アントニオ・バッツィーニ通り

ミラノにはアントニオ・バッツィーニの名を冠した通りがあります。