A.カッペルレッティ作曲/中野二郎編曲/石村隆行補筆
パンフレットの曲目解説にも記した通り、本曲は2楽章構成のシンフォニアである。「シンフォニア」は交響曲の前身とされ、確固たる形式こそ定まってはいなかったものの多くは複数の楽章から成った。そのため、専らソナタ形式や、より簡略な形式をとる演奏会用序曲とは区別される。「シンフォニア」にせよ「序曲」にせよ、非常に多様な形式の音楽を包含する言葉であるため、人によって解釈の分かれるところではあるだろう。本曲に関して言えば、前半部分を「序奏」、後半部分を「アレグロ」として単なる「序曲」のように捉えてしまうならば、序奏の割合が大きいため、曲全体のバランスとしてはやや違和感を持たれるかもしれない。一方で「シンフォニア」の形式の一つとして、緩-急の2部からなるフランス風序曲というものがあり、本曲の構成はこれに最も近い。
いずれにせよ、本曲の楽譜が明確に2つの楽章に分けて書かれている点については、注意深く吟味する必要があろう。それにも関わらず本曲は、ともすれば先に述べたように単なる「序曲」のように捉えられかねない。その要因を作っているものとして、第1楽章を締めている、ト長調の終止としてはやや不自然なD7の和音の存在は無視できない。この和音は第1楽章を支配するト長調、第2楽章を支配するト短調のいずれに対してもドミナントとなっているため、第1楽章の終止は「ト調」への解決欲求を多分に含んだ響きを持っており、結果として2つの楽章をあまりにも自然に繋いでいる。従って第1楽章を弾き終えた後、一旦音楽の流れを切って(何なら調弦を挟んで)から、然る後に改めて第2楽章を弾き始めるといった演奏の仕方は、おそらく想定されてはいないのだろう。
つまるところ本曲の最大とも言える特徴は、相異なる2つの曲を見事に繋いで新たに1つの曲として再構築している点であり、そこに作曲者の類い稀な構成力が光っている。ただしこれには本曲が全体としてやや長大になってしまったという弊害もあり、我々には改めて本曲を通して聴衆を飽きさせず演奏しきるという難度の高い使命が課されることになる。作者カッペㇽレッティにはこの課題をものともしない圧倒的な色彩感覚が備わっていたのかもしれないが、弦一色の濃淡のみによって世界を描くマンドリンオーケストラの悲しき宿命として、編曲の際にそのような多彩さは少なからず削ぎ落とされてしまっている。
そういうわけで今回の演奏では、本曲の持つひととおりでない複雑性を、マンドリンオーケストラのために新しく組み直すという、ある種無謀な試みに挑戦しようと思う。
第1楽章冒頭では、マンドリンによって奏される第一主題と、マンドラあるいはマンドロンチェロとギターによって奏される副旋律が現れる。続く場面ではマンドリンによって第二主題が紹介される。これらはその後様々なパートによって形を変えながら再現されるのであるが、第1楽章の盛り上がりが最高潮に達するとき、その全てが同時に最大音量で鳴り響く。過去にマンドリンオーケストラを指揮したことがある方であれば、その厄介さをご理解いただけることであろう。今回はオーケストラ全体の音量はffを保ちながら、各パートは独立に強弱をつけるように演奏する。それは我々生命が一個の有機体としての姿を保ちながら、内部は常に循環器の活動や新陳代謝によって変化し続ける様に、あるいはこの地球が常に大気と海洋の巨大なうねりを孕みながら存在し続ける様に似て、そういう意味で聞き手に生き生きとした音楽を感得させるものになると考えている。
第2楽章では冒頭から、その後幾度となく現れることになる重要なモチーフが提示される。このモチーフは単に弾くだけでも至難なのであるが、特に我々を困らせるのは、それが弱拍に始まり、続く拍頭にアクセントとアーティキュレーションスラーによって多分な重みが付されている点である。今回は初めからこの重みが充分に聞き手に伝わるように演奏する。第2楽章ではこの他にも様々なモチーフが登場するが、先のモチーフと同様、それぞれに重み付けが為されている。曲が展開すると、例によってこれらは同時に奏され、重み付けによって各モチーフに宿った生命が、互いに異なるタイミングで芽吹くことになる。このようにそれぞれのパートが独立して各々の役割を全うすることで、全体として一つの複雑性に富んだ豊かな音楽が生まれることこそ、カッペㇽレッティのオーケストレーションを楽しむ醍醐味であると言えよう。
総じて、今回の演奏では、いずれの楽章についても共通する目標を志向している。一つ一つの要素を大切にし、丁寧に回収していくことで、第1楽章では複数のメロディを同時に響かせ、第2楽章では複数のモチーフを同時に躍動させることによって、生きた音楽の現出を目指す、即ちこれである。
(筆者 圓尾駿弥)
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